スポーツと私

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メンバー紹介の一項目として各メンバーが用意した文面ですが、余りに長すぎてメンバー紹介ページが重くなって適わないので一部こちらに移します。

600字以内にまとまっていないものは全てこちらに移動されています。長けりゃ良いって訳じゃないことを少しは…

鶴の場合
練習試合でう〇こをもらし…
鍋の場合
僕のやってきたスポーツは「野球」に尽きます…
忍の場合
ただ、剣の道は決して平坦な道ではありませんでした…
天の場合
同じコートで女と戯れるなぞ言語道断…
成の場合
私のサッカー経験は3日です
獣の場合
私が走れば横を風が駆け抜ける。その感覚が好きだった…
酒の場合
始めてすぐに隣で手をつないでいた女の子に水疱瘡を移されました…

鶴の場合

小3の時、ピッチャーで有名だった兄の後を継ぎ、ベア―ズという少年野球チームに入る。ポジションはベンチ。気の弱かった私は試合に出場するのが怖かったため、ベンチが大好き。打てない、獲れない、守れないの三拍子揃っていた私は試合に出ることはほとんどなし。唯一の思い出は、練習試合でう〇こをもらし、帰りのバスで臭いと怪しまれ、挙句の果てに解散前に何らかの罰でケツバットを食らったこと。世界広しと言えど、う〇こがついたままケツバットを食らったのは私くらいではないでしょうか。

小4で学校のオーケストラ部に入り、忙しくなったためベアーズを退団。オーケストラは日本一に輝く!(人生の絶頂期?)

小6になると、急に背が高くなり脚の筋肉がつく。(原因不明)

中学ではテニス部に入るがテニスを楽しむ程度。体育祭では足の速さを買われ、対抗リレーなどに出るが、走り方が女の子走り(腕を左右に振る)ため、いつも笑われる。一方、長距離はトコトン遅く、まじめに走っていても「こらーまじめに走れー!」と怒られる始末。踏み台昇降は女子よりも悪い。(昔の心臓病のせい?)

高校では部活に入らず、バイトと勉強と遊びに専念。部活入ってないのに、ラグビー部やサッカー部の人より足が速くてちょっと天狗になる。

大学ではテニサーに入るも、人間関係が上手く築けず、3ヶ月で消える。

2002年、ボーリング部の腹部長を務める。(ハイゲーム230)

現在、足の速さを妨げる脂肪と格闘中。が、仲良く共存するべきではという意見も・・・。試合ではちょこまか動いて、相手を霍乱させます!(要体力)

鍋の場合

僕のやってきたスポーツは「野球」に尽きます。とはいえ、現役を引退するまで野球一筋だったというわけではなく、こともあろうか練習をサボることもしばしばで、特に無類のTVゲーム好きだったせいか、「ドラクエ」や「FF」の発売日の次の練習は必ず休むというダメっぷりを発揮してました。しかしながら野球が僕のアイデンティティを育んだのもまた事実で、子供の頃は自己中・利己的な面が前面に出ていたただの悪ガキが、野球を通して「協調性」「思いやり」「自己犠牲精神」を解することが出来る人間にまでなれました。そして、野球をやり始めた頃の「親父に無理やりやらされていた」という受動的な気持ちが、高校生になる頃には「仲間と一緒に野球をやれる幸せ」に変わっていきました。野球を始めた小学1年から野球を辞めた大学3年までの15年間を語るのは容易ではないので、ここでは概略的にまとめておきます。てか長いなぁ〜(前言い訳)。

【小学生編】

小1の時までは親父に空き地へ連れて行かれ、知らない少年達と一緒に野球をやらされる。小2の時、近所のおっちゃんに誘われ地元の野球部に入部(3軍)。異例のスピード昇進で、3軍から2軍、2軍から1軍、気が付けば3年でベンチ入りを果たす(ポジションはたしか一塁手)。小5の時親父の気まぐれで隣町に引越すはめに。転校先では「ウェスタンズ」という名称の地元野球部に入部。入部1ヶ月でエースの座を獲得(コントロール勝負)。目立った成績を残すことはできなかったが、それなりには頑張る。

【中学生編】

「田無シニア(硬式野球)」に所属。シニアでは上には上がいることを思い知らされ、挫折しかかるが、それでもそれなりに期待される選手にまで成長。その頃はまだ場の空気を読むという高等テクニックは身に付けてはおらず、最後の大会の時、最後の練習なのに「塾(中2で入塾)があるんで帰っていいですか?」と言って監督にマジぎれされるさらに、最後の試合で登板を命じられるも「腰が痛いんで投げなくていいですか?」等とたわ言を吐いてまたもやマジぎれされる失態を犯す。大会終了後、「堀越学園」「日大鶴ヶ丘」にスカウトされるが、丁重にお断りし、自力でめたく第一志望の「常総学院」へ合格(※ 嘘です)。

【高校生編】

投手として硬式野球部に入部。1年の夏でベンチ入りを果たし、初戦の都忠生戦で中盤でリリーフとして出場。好投するも(1)緊張してサインを出してくれない捕手(主将)、(2)内野の失策数8という予想外の裏切りに遭い、あえなく敗退(サヨナラエラー)。また、早実との練習試合では(1)13失点をたたき出して負けた試合で反省会をブッチする(2)4連続サヨナラ負けという失態を犯す。中2の秋の大会でエースの座を獲得し、対東海大菅生戦に登板。延長12回、160球を力投するも、またもや味方のサヨナラエラーで敗れる(2−3)。中3の夏。肩を壊し遠投が20m程度の状態になりながらも外野で出場。順調に勝ち進んでいきベスト16に。そして、第5回戦、対東海大菅生戦。けがで味方投手は投球続行不可能になり、監督は何を思ったか肩を故障中の僕に投げるように指示する。中学の頃の失態を反省し、故障を言い訳にすることなくマウンドに立つ。

「時速100kmのスローボール」「時速70kmの超スローカーブ」という持ち球を駆使し、必死で激痛に耐えながらの投球。しかし、結果は2−4の惜敗。そして、その年の夏に東海大菅生は甲子園に行くことになる。以来2日に一回は野球の夢にうなされることになる。ちなみにその試合の翌日朝日新聞に『常総学院田辺選手敗れる』という見出しの記事が掲載され、「俺って意外と有名だったの?」というおまけイベントが発生。さらに、東京新聞では試合終了後スタンドの芝生で僕が男泣きしているところの写真が掲載される。

【大学生編】

体育会系の方の野球部(サークルではない)に入部。ここでは先輩絶対主義の封建的社会が確立されており、練習中・試合中・練習後を問わず先輩・コーチに粗相をしてしまうと連帯責任をとらさられるのは当たり前の環境に愕然する。さらに甲子園経験者は珍しくなく、中には全国制覇の捕手がいたりと自分が場違いな所に来てしまったのではないかと不安になる。しかし、まさに人種の坩堝。人間的に何かが欠落している者がうじゃうじゃいて、同学年で喧嘩が絶えない状況が続く。(田辺4戦3勝1分け)。そうでなくても先輩のしごき・本業の練習は過酷極まり、一年生は一年間で3分の1が退部してしまった。厳しい環境を何とか乗り越えて、2年の時には「新人戦」に出場し神宮のマウンドを踏む。緊張のあまりスピードを全く出なかったが、1回を投げ無失点。投手としては球速が致命的な位遅いが、それが幸いしてか3年間でバットを30本は折り、練習試合の自責点もわずか1失点に押さえる。ただ、やはり球速のない投手には未来がなく、ついに一軍に上がれることはなく、肩の故障を再発したことをきっかけに大学3年の半ばで退部。

その後「だいごろう」と運命的な再会を果たし、気付けば仕事仲間とも縁があってか、今ではその仲間・生徒とフットサル部を結成し参加するに至る。

忍の場合

第一話「ベッドは血の香り」

父が子育てを放棄していたため、僕はほとんどボールに触ったことがありませんでした。球技が下手だったおかげで幼稚園・小学校では散々にいじめられ、以来ボールを持った者、及びボールを器用に操る者は僕の中では「人生の敵」として認識されていったのです。そしてその思いはスポーツ全般への恨みとして熟していき、僕はスポーツのできない「もやしっ子」への道を歩んでいったのです。そう、あれを発見するまでは。

高校に入って間もない頃、祖父(元警官)の部屋で遊んでいたら、ベッドの下に何やら光るものが。取り出してみると、それはずっしりと重い二振りの刀でした。一本はまっさらの日本刀、もう一本は短刀でした。驚いたことに、短刀にはべっとりと血曇りがついていたのです。「これはのう、いくら拭いても落ちんのじゃ」とは祖父の弁ですが、誰を斬ったのかは恐ろしくて聞くことができませんでした。

その日、祖父は僕の前で木刀を振ってみせてくれました。木刀は「ヒュン!」と風を切り、僕は初めて聴くその音に心を奪われました。ともあれ僕は、自分も風を切ってみたいと、あの刀を自在に操れるようになりたいと、強く願うようになったのです。

刀に導かれるままに、僕は剣道を始めました。それは僕に気力、体力、そして多くの友人を与えてくれました。そればかりでなく剣道は、あれほど僕の心に頑固なまでこびりついていたスポーツへのコンプレックスをも溶かしていってくれたのでした。

ただ、剣の道は決して平坦な道ではありませんでした。そこに待っていたのは、異形の生物、恐るべきハプニングとの戦いの日々だったのです。

第二話「黒い侵入者」

それは雨の降りしきる6月の出来事でした。いつものように面を付け、「切り返し」を始めようと竹刀を振りかぶったそのとき、

「ガササッ」

僕は気のせいだと思いました。いや、そう思い込もうとしていたのかも知れません。なぜならそれは有り得べからざる場所、つまり面の内側から聞こえてきたのです。しかし、僕が相手に打ち込んだその時、その「黒い奴」は僕の視界に躍り出ました。「この形、このツヤ…まさかッ!」よく「結婚しました」などという報告に対し「こんないい人どこに隠してたの?このこのー」などという社交辞令が使われますが、こいつはどこに隠れとったんじゃああー。付けるときには全然気付かんかったぞー。視界を奪われた僕の正面打ちは空を切り、その衝撃に驚いた面の中の「奴」こともあろうに羽根を広げて面の中を飛び回ったのです。羽根が顔に何度か当たりました。そのときのヌメッとした感覚、面の中に反響するバサバサという音…

「ウッガーッ!」僕は竹刀をぶんぶん振り回しましたが如何せん「奴」は面の中、当たろうはずがありません。気を取りなおして面をはずそうと面紐に手をかけると、手が滑って「固結び」になってしまいました。僕の顔面に密室、大W田的に言うと「僕とゴキ太のラブラブ空間」が出現してしまったのです。「頼むから顔に着地だけは、着地だけはするなッ!」ますます動転する私の方に一人の部員が手に何かを持って向かってきました。すがる思いで手の中の物を見て僕は戦慄しました。

殺虫スプレー。

「大丈夫!横から吹き付ければ顔には当たらないから!」

一体何をもって「大丈夫」なのか?そんなわけないやろボケー。

ノズルが面の中にはいってくるのをすんでのところで受け止めました。食いしばる歯に「奴」が何度も当たってきます。最悪。

やがて冷静な他の部員が僕の面紐をハサミで切り、僕の恐怖は終わりました。

それから何ヶ月かしたある日のこと、妹とゲームをしていると、

「お兄ちゃん!」

黒い奴が壁面を登るのを視認した瞬間、傍らにあった「猫の手帳」をつかんで奴を一閃しました。奴は正中線から真っ二つになりポタリポタリと床に落ちました。一つのことが果たされたという思いが、さわやかな風とともに僕の中を吹き抜けていきました。

ちなみに、僕の誕生花は「弟切草」

花言葉は「復讐」です。

第三話「真昼の情事・甲山事件」

男子校で野郎相手の剣道に明け暮れていた僕ら。ある日、地元の公立高校、K山高校に練習試合に行きました。試合後の稽古で、他の部員より一足先に男子部員との「地稽古」(実戦形式の稽古)を終えた僕に、顧問は言いました。「女の子と稽古したれや」「え、あ、はい」僕の前に、白い袴の小柄な女の子が立ちました。「お願いします」女とはいえ剣士、手加減などしては武士道にもとります。「面ッ!」僕は初太刀から必殺の気合をもって打ちかかりました。相手の剣筋も素早く、二人の竹刀は鍔の少し先でかちあいました。当然強烈な反作用が双方を襲います。ただ、そこは体格の差、彼女は体勢をくずし、後ろに倒れていきました。と、そのとき。彼女が倒れる際に宙に舞った右足が、僕の軸足(左)をきれいに刈ったのです。

当然僕は前のめりに倒れます。まずい、僕の体重60キロプラス防具10キロが彼女の上に落ちたら、怪我をさせてしまう!僕は竹刀を投げ捨て、倒れた彼女の両肩のやや上の床に両手を、彼女の脚の間に両膝をついて衝突を防いだのです。脱臼せんばかりの痛みが両肩両膝を走りました。「大丈夫?」が、次の瞬間。「おおおおおお!?」道場がどよめきました。それもしかたありません。だってはたから見たら、僕は「竹刀を突然捨てて女の子を押し倒した」ようにしか見えなかったでしょう。恐る恐る下を見ると、面の奥の彼女の顔が紅潮しています。胴を伝わって彼女の鼓動が聞こえてきたりとか面の隙間から吐息が入ってきたりとかで僕はますます混乱します。つーか両肩両膝が痛くて立てません。

「だ、大丈夫ですか…?」歯を食いしばって痛みに耐える僕に、下から彼女が聞き返してきました。なんか1分半くらいそのままだった気がします。

「我慢できんかったんやろー」部員たちにさんざん冷かされながら、僕らはK山高を後にしました。と、バス停に向かう僕らのところに、さっきの女の子が来たのです。「今日はありがとうございましたー」彼女は僕に手を振ってくれ、ペコリと礼をしました。彼女とは、それから会っていません。

第四話「死の吐息」

我らK陽学院剣道部には宿敵がいました。兵庫県でナンバー2(当時)の実力を誇るH徳学園でした。我ら剣道部がいかにして丸2年かけてH徳から勝利をもぎとったかについては別の機会に譲るとして、今回はそのH徳のある選手について書きます。

はじめて彼を見たのは姫路で行われた春のインターハイ。彼は見た目は巨デブ、動きは鈍重、技も猛者揃いのH徳にあってはキレ不足でした。レギュラーにするにはほかにいいタマがいるのになあ、とみんな噂しました。ところがいざ試合となると、様々な強豪チームの選手が彼の前で明らかに調子を落とし、屈していきます。

その謎は練習試合で明らかになりました。僕と彼との対戦になり、双方面を打ち合ってつばぜり合いになったときです。彼はデブなので当然僕より早く息が切れます。「引き面」を打ち込もうとぼくが彼を強く押したその瞬間

「ぶはあ〜」

「臭ッ!!」

彼の吐息の臭いこと臭いこと。卵とか魚とか、色んな物の腐ったような臭いが僕の面の中に充満します。近い間合いでの戦いを主体とする僕は度々その技を喰らい、次第に防戦一方になっていきました。あまりにも凄まじいこの技は「ブレス」と呼ばれました。その後、K陽のある部員はニンニクを大量に食べて「ブレス返し」という技を放ち、彼を返り討ちにすることに成功しました。

天の場合

初めてスポーツに熱中したのは、3〜4歳で見たプロ野球。「打率とか防御率とか、なんて魅力的な数字が揃ってるんだ」という、無邪気さのカケラもない理由ではまる。

小学校高学年になると、運動好きの少年達は地元のチーム(少年野球、サッカー、ミニバスなど)に所属し始める。球技は一通り好きだし、既にチームに入ってるヤツに誘われたり、それなりに自信もあったが、諸事情により断念。テニススクールに通い出す。

中学の部活では硬式テニス部はなく軟式テニス部しかないので、野球・サッカー・バスケ・バレーなどと迷うが、「チームプレイだと人のせいで勝ったり負けたりするのでイヤ」と周囲に暴言を吐き、軟式テニス部へ。(市レベルでは)それなりに活躍。この時は「スポーツ=自分を認めさせるための手段」であり、「enjoy sport」の精神は全くなし。自分の力で勝つことしか考えてない。

高校はさすがに硬式テニス部はあり、そこそこ強かったので迷わず入部。唯一1年生から大会に出場したりして調子に乗る。もちろんこの時も、「勉強とスポーツは自己顕示欲を満たすための手段」。しかし諸事情により2年生で退部し、再びテニススクールに通い出す。

大学でのサークル選び。テニスサークルに体験入部して愕然。「女子がいる」。今までは男女で別の部活だった。同じテニス部といっても女子と触れ合うことは、(オレは)全くなかった。「同じコートで女と戯れるなぞ言語道断。それにこいつら、なんで男女で下の名前で呼び合ってるんだ?馴れ馴れしい。肌に合わん。」と、テニサー入りを断念。頑固者だが、そろそろ「プロになれるわけでもないし、スポーツは楽しむものかな」という気になってきたので、中高生時代は避けて通ってきたチームスポーツをやろうと思い、軟式野球サークルに入団。月1〜2程度で練習や試合に参加して、それなりに楽しむ。またサークル以外でも、友人らとコートを借りたりしてバスケやサッカーを楽しむ。逆に、本職のはずのテニスのブランクは長くなるばかり・・・。しかも中高時代は前述の心構えでいたため「テニス=苦しいもの」というイメージが今も拭えない。

そして2002年にボウリング部を経て、2003年にフットサルチームDT73に入団。今に至る。

成の場合

確か小4のときだったと思いますが、たまたま同じクラスの友達に誘われてサッカー部(授業の中のクラブじゃないですよ、れっきとした部活です)に入りました。しかしただ「何となく」入っただけで、周りのすげ〜上手い同級生十数人に全くついていくことができず、また放課後まで拘束されるということにイヤになった私は3日で退部という結果に終わりました。なので、私のサッカー経験は3日です(どこかに書いてありましたが)。ちなみに今でもリフティングは6回以上できません。

〔中学生時〕

卓球やってました。

私の卒業した佐倉市立佐倉中学校卓球部は、先輩にあの荻野目姉妹(って今の高校生は知らないよなぁ)を輩出した市内でも有数の伝統だけはある強豪チームであり、私は中2からほぼレギュラーで出てました。どのくらい強いのかというと、大会に出場するとどんな対戦相手に当たっても午後になればあっさり帰ってくるようなチームでした(つまり全員午前中に負けて終わり、ということです)。ある大会のときなんぞ、あまりの強さに感激してしまった顧問が選手全員を体育館の一角に集め、「お前らには勝とうという気持ちが全く見られない!俺に恥をかかせたんだ(どこかで聞いたセリフだな〜)!!」という感謝のお言葉を頂きました(笑)。

「卓球」というと、とかく「暗い」とか「オタク」とかいわれますが、そんなことは全くないですよ。現に私は中学時代は彼女(らしきもの)もいましたしね(え?今?・・・・・コメントできません)。

ま、地味なスポーツであることは認めますが・・・・・・

ちなみに大学時には学内球技大会(部活に入っていない学生のための球技大会)で卓球男子ダブルス優勝、シングルス3位という結果を出しました。

どうでもいいですけどね・・・・・・

〔高校生時〕

高校に行っても卓球を続けたかったのですが、高校に入ってみたら卓球部がナイ!ということが判明し、友人の誘いで別記にあるようにハンドボール部に入ってました。中学同様このチームも県内有数の弱小校で、同じブロックの八千代高(インターハイ出場経験あり)や東京学館(県内トップレベル、化け物揃い)にボコボコにされてました。普通ハンドボールのスコアというと、大体20点前後で争われるのですが、この2校と対戦すると、30−5とかいうスコアになってました。しかしチームは弱くても顧問は厳しい、いうタチの悪いチームで年中「こらぁ〜成(同性が二人いた)!何やってんだ!!」と年中怒鳴られたり、蹴っ飛ばされたりしてました。

湘北とは全く逆のチームでしたね(笑)。

なお、ハンドボールはとにかく「痛い」スポーツです(単に肉体的に痛いという意味です)。見たことのある人なら分かると思いますが、当たりは結構許されるので相手を軽く押すぐらいならOKです。私は高2の冬、ディフェンスの練習中に右手親指を脱臼し、約1ヶ月間右手の自由が利かず、世間一般の健全な男子高校生が日常生活を送るにあたり、いろいろな面で大変苦労した覚えがあります。

と、中高時代をひたすらマイナーなスポーツに明け暮れたおかげで、今の私の人格が形成されているのかもしれません。

獣の場合

〜風〜

幼年時代、私は走ることが全てだった。私が走れば横を風が駆け抜ける。その感覚が好きだった。

 幼稚園からの行き帰り、私は母の自転車を後ろから押すという修行を繰り返していた。そこには苦痛など何もなく、「押して走る」ことが天命であるかのように、それが当たり前のことであるかのように、ただ毎日、自転車を押しては走った。

〜英雄〜

 小学校1年生での運動会、私は「学年で最も速い男」と呼ばれたK君と徒競走で対戦した。いつもは小鹿のようにおとなしかった私はもちろん、「相手じゃない」と思われていたにちがいない。K君は小学3年生とは思えぬまでにふてぶてしいほど余裕である。

 しかし、スタートの合図から2秒ほど経ったときだろうか‥歓声があがった。私はK君と並んで走っている。周囲は騒然としている。みんな私に注目している!確かにK君は速かった。しかし、毎日、自転車を押しては走り‥を繰り返した私の脚は、もはや馬のそれであった。私は、空翔ける天馬の如く、風と共に走った。K君を振り切っての勝利、これが私の「はじめての1等賞」だった。私は以後、「ベンジョンソン」の異名で呼ばれることとなる‥

〜転機〜

ある日、私は1本のファミコンソフトを手にした。「キャプテン翼〜ワールドユース編〜」。私はこの現実では見たことのない、いわば異様な世界にあこがれるようになった。「ベンジョンソン」は薬物違反でつかまってしまったようだし、走りが速くても‥ちょっと地味だな‥よし、こんなサッカー選手になろう。翼君のようにポストから跳ね返ったボールをオーバーヘッドなんて‥現実的に考えたらできない‥‥でも!早田君のような「カミソリシュート」は打てるに違いない!(?)今考えると、ちょっと理想の選手がマニアックだったような気もするが、これがサッカーを始めたきっかけであった。

 完全にサッカー熱に浮かされていた。毎日のように練習した。

<練習メニュー>

(当時のメモより抜粋)

まったく実践では役に立たなかった。

〜ボールは友達?〜

Jリーグも始まったことが影響し、私はサッカー部に入り中学生活をおくった。ポジションはサイドDFが多かっただろうか。サイドDFは基本的に守備要員であっても、サイドからオーバーラップしスペースに入って攻撃の起点にもなるところである。地味だけど、井原も加藤久もDFだし‥まあ、いいか。(この頃、尊敬していたプレーヤーだった) だが、私はサッカーが嫌いになっていった。なぜなら、「点を入れられてもDFは責められるのに、点を取らなくてもFWは責められなかった」こと、「点を取られなくてもDFは注目されないが、FWは1点とれば一躍ヒーロー」ということに不条理を感じたからだ。まあ、心がせまいといわれればそれまでの話‥でもDFとかなら一度は考えると思う。

 ともあれ、ボールとは友達になれませんでした‥

〜空虚〜

高校3年生、サッカー部もなくなり、「棒倒し」(※)も終わり、周囲は大学受験にまっしぐらになっていたが、私は、勉強もそこそこに「マンガ喫茶」でサボる、公園で本を読む‥考える‥仙人のような生活に。高1の終わりに腰、膝を痛めていたこともあったので、以後、スポーツはやるまい、と決めてしまった。

浪人の時期は喫茶店とかでだべる、池袋、新宿で遊ぶ‥を繰り返し、スポーツとは全く縁のない生活になってしまう。大学に入ってもスポーツはやらないだろうなー。腰や足の怪我もあるし‥なんて思っていた。

※棒倒し→最後の番外を参照。

〜KIBA〜

大学では、スポーツをやるサークルには入らなかった。体育会などもってのほか、就職先は塾の講師だし、いよいよスポーツとは縁遠くなる‥

こんな予想は全く覆された。なんで毎週、ボーリングとかやってたんだろ‥?スノボも木場つながりで初体験だし。んで、フットサル。大学出てから「鬼ごっこ」をやるとは思っていなかったし‥(in戸山公園)そういえば校舎で傘ゴルフをした覚えもある。

以上の点を踏まえると、どうやら、私はスポーツとは離れられないらしい。ならフットサルで、浅草の舞台でヒーローになることを夢見るとしよう!

〜番外〜

<その他、今まで少しでも関わってきたスポーツ>

ドッジボール
小学生のころ、ドッジボールブームが起きる。(『ドッジ弾平』というマンガが流行)休み時間は常にドッジボールをしていたときもある。そこそこ強くなる。
水泳
泳げるものの才能ナシ。スケート‥つまらん。オリンピックとかで見るのは好き♪
卓球
中2のころ。なぜか燃えたあの夏の日。
柔道
「受身は上手いが、投げるのが下手」と言われ、やる気をなくす。
中国武術
中3のころ、武術の本を買いあさるのみで、実行には至らず。
ビリヤード
浪人時代に唯一やったスポーツ(?)。ビリヤード場で試合をした高2の女にボロ負けし、挙句の果てにフォームを指導されたというトラウマがある。
棒倒し
開成高等学校の伝統となっている「運動会」の目玉種目。最も熱い漢(おとこ)の格闘技。高2、高3が参加。学年ごとに8クラスに分かれてトーナメント戦で。クラスの50人が攻守に分かれ、相手陣内にある3mくらいの棒を先に倒したほうが勝ちである。
ルールやポジションなどが細かいので、詳しくは、民明書房刊「棒倒しとは何ぞや〜我が高校生活に悔いなし」を参照のこと。
スキー
小学2年生、家族で新潟にスキーに行く。初めての割にかなり上手く滑れるようになり、中級コースへ。傾斜が急であったため止まれなくなり、人とぶつかってようやく止まるが、ぶつかったのは私の親父でした。親父は全治3ヶ月の複雑骨折。それ以来、家族でスキーに行くことはなかった。

酒の場合

実は僕は意外と色んな運動をやっていたりします。生まれて初めてやったスポーツは、体操です。幼稚園時代に始めたのですが、始めてすぐに隣で手をつないでいた女の子に水疱瘡を移されました。そんな体操も逆立ちができないことに挫折してやめてしまいました。が、この体操のおかげで、この体系で跳び箱やマット運動が地味に得意だったりします。。

体操を始めた少し後に水泳も始めました。これは、小学5年生くらいまでやっていました。やめた理由は小学生相手には怖くて仕方がないコーチでした。思い出すことといえば、あの怒鳴り声と、今考えれば獣ばりに濃かった胸毛だけです。

そして、実はおれはサッカー経験もあったりしました。とは、言っても小学校1年生の時に1年間だけ。しかし、当時母が見学にきていたらしいのですが・・・おれは、ゴール前で砂遊びをしていたらしいです。母いわく「あぁ、この子はダメだ」と。いや、全くそのとおりだと思います。

次にテニスです。これは、小学2年生からやっていました。なにげに、一時期は選手育成コースにも誘われたのですが、そのコースには女の子しかいないことが分かり、当時の僕は恥ずかしさのあまり断念。まだ、純粋だったのです。このテニスは受験時代までずっと続けていたのでした。

中学に入ると、どの部活にするか悩みました。まず、テニス部がなかった時点で失敗ですが、とりあえず、軟式野球部かバレー部にしぼり、悩んだ結果野球部に。しかし、肘を痛めて退部。その後、陸上部に入りましたが、半ば幽霊として活動していました。

高校では部活に入らず、のらりくらりとチキン屋を始めたらもう1年以上たってしまいました。そして、現在フットサルを頑張ってます。スポーツにおいても、勉学においても上達への道は「限りなき反復練習」だと考えているので、自主トレは頑張ってます。いい練習法があったら、教えてください。

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