巣鴨子供置き去り事件

1988年に起こった事件。

母親(事件発覚当時40歳)は川崎の私立高校卒業後、服飾専門学校に進学。歌手を目指したこともあり、実際にレコードも何枚か出している。

昭和43年頃からデパートの派遣店員として就労。勤め先で男性と同棲を始めるが、この男性との結婚を両親から猛反対される。2人の間には子どももできたが、その子は養子に出している。

昭和48年、同じ男性との子を足立区で出産するが、母親は「正式の夫との間にできた子どもではなので怖くなり、結局出生届はださずじまいだった」。この子が長男で事件発覚当時の14歳少年。少年は父親については「わからない」と話している。(母親はこれまで父親の違う子どもを5人生んだと話しているが、少なくとも3人の男性との間に、6児を出産。養子に出した子と長男以外は、すべて自宅で自分の力だけで生んだということが判明)

その後都内のマンションを転々とし、食いつなぐために窃盗や売春をし、警察に捕まったこともあったという。

56年頃に長女(事件発覚当時の7歳)を出産。

59年9月に次男を生んでいるが、この子は60年2月に仕事から家に帰ると、ほ乳瓶をくわえたまま死んでいた。処置に困り当時住んでいた家に隠していた。

母親は長男には「親戚のおじさんに預けた」と説明している。

60年頃に二女(事件発覚当時の3歳)を出産

61年7月に三女を出産

62年9月頃までは大塚駅周辺に住んでいたが、その後西巣鴨に転居。死んでいた次男はビニール袋に入れてスーツケースに入れたまま荷物として運んだ。

西巣鴨のマンションは表通りに面した鉄筋四階建て。住んでいたのは2階で、1階には24時間営業のコンビニがあった。

大家には、「長男と2人暮らし。長男は立教中学に通っている。夫は数年前に死亡した」「私はデパートに勤めている」と話して大家を信用させマンションに入居。大家は他に子どもがいることは知らなかったと話している。

長男には「事情があって今は学校に行けないが、いつかは行けるように手続きしてやる」と言い聞かせ、市販されている学習ブックを買い与えていた。(発覚時、名前を書かせても、姓は漢字で書けるものの、名前はひらがなでしか書けなかった。

62年秋頃から千葉県浦安市の冷凍食品販売業の愛人(56歳)ができ、愛人のところに入り浸るようになった。長男の話では62年秋頃から「仕事で大阪に出張する」と言ってマンションを出たままだというが、母親はときどき2・3万円ずつ送金してきたようで、たまに姿をみせていたこともある。

その後、63年の正月に一度戻っているが、子どもが邪魔になってマンションに置き去りにし、千葉県内の愛人のマンションに同居していた。長男には千葉県の住所を教えていた。

長男によると、マンションには時々男性が「元気か」と訪ねてきていたらしいが、愛人か長男の父親かはわからない。

長男は、いなくなった母親の代わりに食事を作ったり、おむつを取り替えたりしていた。また、毎日のようにコンビニを訪れては菓子パンやおにぎり、アイスクリームなどを買っていた。コンビニの店長は「夜中の2、3時に来たり、学校のある昼間の時間帯にもしばしば見かけたりするので、変だなあと思っていた」と話していた。

母親がいなくなって、11月頃に長男は近所の菓子店で中学1年生の2人と知り合う。彼らは頻繁に出入りするようになった。

63年3月末、長男は滞納していた1月までの3ヶ月分の家賃(27万円)を支払ったが、2月以降は未払いでその後はガスと電気を止められていた。

4月21日昼頃、遊びに来ていた友達2人のうちの1人が前日に買っておいたカップめんがなくなっているのに気づいた。三女(2歳)の口元にのりが付いていたため、長男が(あるいは友だちが)三女が食べたと思い殴りはじめた。

友人2人は、はじめは「長男がやめろと止めた」と供述していたが、その後「初めは、長男も殴った」と話し、長男も「3人でいじめた」と認めた。

長男は3人の妹の面倒を一人でみていたが、言うことをきかない幼い妹たちに困り果て、そそうをしたりすると体罰を加えていたようだ。

ひとしきり収まると、今度は三女がお漏らししたらしいことが分かり、友人の1人がまた折檻すると言い出した。今度は長男は「勝手にやれば」と言って、隣の部屋でTVを見ることにした。

友人は、押し入れの上の段から三女を何度も落とし、何度もやっているうちに面白くなって、頭から落としたり、わざと落ちてくるところに足を出して腹を蹴りあげたりしはじめた。三女はボールのように蹴られ、ぎゃあぎゃあと泣きわめく。その声が面白くてまた蹴る ― その繰り返しで行為はだんだんエスカレートしていった。

ふと長男が気づくと隣室が静かになっていた。覗いてみると三女がぐったりして足元に倒れていた。

救急車、それとも母親に電話 ― いろいろ考えても結局どうすればいいかもわからないまま、見よう見真似の人工呼吸を施したり、布団をかけて体をあたためるなどした。それを後目に暴行を加えていた友人は「19時だし、家に帰らなきゃ。」と言って帰宅した。

三女は翌22日午前8時半ごろ死亡。「三女が死亡する致命傷は、長男でなく友人が押し入れから何回も落としたことによる」と長男の弁護士は述べている。

三女が死亡したあと、長男は母親が次男が死んだときにやったことを真似た。ビニール袋に死体を入れ消臭剤を入れて押し入れにしまいこんだ。しかし消臭剤の量が足りなかったのか、たちまち臭くなり家には置いてはおけない、ということになった。

26日、長男は三女の遺体を友人2人とともにビニール袋に包み、さらにボストンバッグに詰めて、3人で電車に乗り、夜11時頃秩父市大宮の公園わきの雑木林に捨てた。友人のうち1人は「夜遅くなるとしかられる」と途中で電車を降りた。

2人は遺体を捨てた後、帰る電車がなかったため、その夜は駅で明かした、という。

見つかった三女の遺体は、カーディガンとスカート姿だった。

17日、「親は帰ってこないし、不良のたまり場になっている」という大家の連絡で、巣鴨署員がドアを開けると長女と次女がいた。大家がバナナとおにぎりを差し出すと、むさぼるように食べた。

長男は「夜の商売の人の子どもで預かっている。母は大阪に仕事にでかけている」と説明した。

18日午前10時、同署員と福祉事務所の女子相談員が訪れると、玄関を入ってすぐのダイニングに妹2人が毛布にくるまって寝ていた。長男は奥の6畳に布団を敷いて寝ており、パジャマ姿で出てきた。

妹たちは衰弱しきった様子で、特に3歳の二女はガリガリにやせていた。

カーテンは閉め切り、部屋には衣類が散乱。台所には残飯の一部がかびた状態で残っていた。

部屋には一通りの家具があり、電気炊飯器でご飯が炊かれ、電熱器にはみそ汁をつくったなべがかけられた跡があった。冷蔵庫にはニンジン、タマネギ、キャベツなどが入っていた。洗濯機には洗いかけの衣類が入っていた。

2人の妹は「パンが欲しい」と言い、相談員が買ってきたパンと牛乳をおいしそうに食べ、その後もアイスクリーム、チョコレートなどと食べ物を欲しがった。

「どうしたの」という問いかけに、7歳の長女は「お兄ちゃんに面倒をみてもらっている」と話すばかりだった。

2人の妹は新宿区の都児童相談センターに預けられた。

長男は21日朝、友人の父親に付き添われて福祉事務所を訪れ保護されたが、センターに空きがないため、都八王子児童相談所に収容された。健康状態、顔色ともにごく普通であったという。

23日、千葉県内の愛人のマンションに同居していた母親は「テレビのニュースで事件を知り、自首しようと思った。中学程度の子どもに幼い子みんなの面倒を見させて悪かったと思う」と話し、保護者遺棄の疑いで緊急逮捕された。涙は見せていないという。

母親は発見された子どものほかにも三女を産んだと話していた。

25日、長男は三女をせっかん死させたことを供述し、傷害致死と死体遺棄の疑いで逮捕。この日まで児童相談所に収容されていたが、三女のせっかん死を供述してからは目に見えて顔つきが穏やかになった。「やはり、隠し事があるのを気にしていたのでしょう。秩父の現場検証から帰ってきたときは、重荷をおろしたような表情でした」と児相の所長は話している。

「本当に優しい子だと感じた。社会の汚れに染まらず生きてきて、母親も絶対的な存在だった。でも、友人との出会いで、小さな子どもの世話をするのが重荷に感じてきたのでは」とセンターの職員は話した。

8月10日、東京地検は、この長男を傷害致死、死体遺棄罪で東京家裁に送致。同地検は「母親さえいれば起こりえなかった事件であり、長男には教育的措置が必要」として少年院ではなく、教護院へ送ることが相当との、異例の処遇意見を付けた。今回は長男が戸籍もなく、全く学校教育を受けていないなど特殊な事情があり、児童福祉施設の教護院で教育を受けさせる方が良いと判断したという。

犯行に加わった少年2人は、刑事責任を問えない年齢であり巣鴨署で補導した。

10月26日、保護者遺棄、同致傷の罪に問われた母親に対する判決公判があり、裁判官は「わが子を養育するわずらわしさから逃れようとした無責任、身勝手きわまりない犯行。三女の死の遠因となったといっても過言ではない」として、懲役3年、執行猶予4年(求刑懲役3年)の有罪判決を言い渡した。

判決理由の中で、執行猶予について「子ども出生を届けず、学校にも通わせないなど母親の自覚がなく、放置が続けば子どもの生命が失われる危険もあった。親の責任を放棄した罪は重いが、同姓相手と結婚してやり直すと誓っていることなどを考慮、今回に限り、自力更生の機会を与えることにした」と述べた。